昭和46年。日本が高度成長の真っ只中、私は十三市民病院で産声を上げました。
この年は大阪万博開催の翌年で、まだまだ貧しいながらも未来への希望が、街中どこを見渡しても咲いていました。
私が生まれたときには、すでにプレス加工(深絞り)の小さな町工場を自宅の片隅で営んでいた両親。父が専売公社を辞して独立した頃は、ずいぶん苦労したようです。
でも、「良いモノを作りたい」という父の持ち前のこだわりが、少しずつ事業を拡大させていったと聞いております。
そんな父はとても頑固な職人で、その性格から母をよく困らせていました。また、父が話すことといったら事業のことだけ。幼い私にとっては全く話が理解できず、ただ聞き流しているだけでした。いつしかそんな父ともお互いの頑固さが災いし、一切言葉を交わさない日々も。父への反発もあったと思います。私はモノ作りと無縁の会計事務所に就職し、税理士となりました。いつかは父を見返したい!そういう幼い考えが私の中にあったのでしょう。
中小零細企業は、数多くの不条理と戦う場。就職した会計事務所で最も強く感じたことです。そんな中、中小零細企業の社長様が愛する自社を命がけで守り抜く姿から、たくさんのことを学ばせて頂きました。大手企業がもたらす中小零細企業への不条理には、社長を始め社員の方々と共に泣くことも。困難を乗り越えた末の成功には、共に喜ぶことも。行政の無理解には、共に怒ることも。何気ない小さな幸せには、共に笑うことも。これらすべては、私にとってかけがえのない財産です。
厳しい経営環境の中でも、今も昔も宝の山のように存在する中小零細企業のノウハウや技術。それは、大手企業では絶対に考えられないことです。作業着のおっちゃんやおばちゃんが、これ程にも頑張っている中小零細企業を何があっても絶対に潰してはいけない。例え、大震災であろうが、底抜けの不況であろうが、です。父もオイルショックの頃、不況のために仕事が激減したことがあります。そんな中、父は家族のために夜中のサンドイッチ工場でアルバイトをしたことも。しかし、どんな苦境に立たされてもこれだけは守っていました。それは、「中小零細企業の代表としての矜持」です。
私は父に反発しながらも、父の背中を見ながら今まで生きてきたのかもしれません。そんな父は今、これまで私や母に絶対に見せなかった笑顔を私の子どもたちに見せています。私に数多くのことを学ばせてくれた中小零細企業への感謝と、言葉では表現できない両親への尊敬。この二つが、今でも消し去ることのできない大きな支えとして私の中に存在しています。中小零細企業はただただ元気であって欲しい。これが私を突き動かす原動力です。
栗山 健一
S46年3月4日生
H3年(20歳) 嶋会計事務所 奉職
H4年(21歳) 税理士試験 合格
H6年(23歳) 税理士登録、岡野合同事務所(現、税理士法人和) 奉職
H12年(29歳) 栗山会計事務所 設立